稲葉篤紀選手 現役20年振り返り ~入団から引退まで~
「自分の打撃ができなくなってきたところから決意した」
9月2日、稲葉篤紀選手の引退会見が札幌ドームで行われた。今シーズンは左膝関節軟骨損傷の影響もあり、出場機会が激減していたが、会見では「自分の打撃ができなくなってきたところから決意した」と語った。しかし、これまでチームに与えた貢献は計り知れない。今回は稲葉選手の入団から引退を振り返るコラムとしたい。
~ヤクルト時代~ 入団1年目からの活躍
稲葉は愛知の中京高校(現:中京大中京高校)から法政大学を経て、1994年のドラフト3位でヤクルトに入団した。1年目から二軍では主に3番打者として出場し、格の違いを見せた。二軍では6月20日までで43試合に出場し、191打席ながら9本塁打を放っただけでなく、18二塁打(この年の二塁打トップは横浜の川端一彰。361打席で23二塁打)と二塁打も量産し、打率.363、長打率.643という数字を残した。
この活躍が認められ、6月21日の広島戦で8番・一塁として先発出場し、早々に一軍デビューを果たす。しかも、1打席目でライトに本塁打を放ち、プロ初打席初ホームランを記録。この日は4打数3安打3打点と活躍した。以後一軍に定着し、この年は67試合の出場ながら、打率.307、8本塁打と将来の主軸候補として順調な滑り出しを見せた。
~ヤクルト時代~ 2番・稲葉
前年の活躍もあり2年目からレギュラーに定着する。2年目となる1996年は125試合に出場し、打率.310、11本塁打と成績を残す。翌年の1997年は打率こそ.267だったが、21本塁打と長打力向上を見せつけた。実はこの2年は2番打者としての先発出場が最も多い。
2012年の日本ハムの栗山監督就任初年度に「2番・稲葉」が話題になったが、2番・稲葉は過去にあった。表3の通り2番での先発出場はともに40試合ながら、犠打数は1996年が5、1997年は6とあまり多くなく、1996年2番出場時の打率は.346とハイアベレージを残し、1997年は7本塁打を放った。まさに打力を生かした2番打者であった。
~ヤクルト時代~ 3年間の低迷と飛躍の2001年
しかし、1998年、1999年は2年連続で開幕スタメンを逃し、シーズンも不調に終わる。特に1999年は外野手では真中満が前年からレギュラーに定着しており、佐藤真一が規定打席不足ながら打率.341、13本塁打と好成績を残し、スミスが20本塁打、高橋智が16本塁打と新戦力の活躍もあり、稲葉の打席数はわずか142と入団後最低となった。復活を目指した2000年はオープン戦で打率.411、12球団トップの7本塁打と大爆発し、2番・右翼の開幕スタメンを勝ち取るもシーズンは87試合の出場に終わり立場が苦しくなってきた。
翌2001年はオープン戦首位打者となる打率.481と再び打ちまくり、3番・右翼として2年連続で開幕スタメンを勝ち取った。そして、この年は今までとは違い135試合で3番打者として出場し、打率は.311で、リーグ2位となる32二塁打、リーグトップタイとなる5三塁打、当時自己最多となる25本塁打を放った。主軸として素晴らしい成績を残し、この年は外野手として初のベストナインにも輝いた。
~ヤクルト時代~ オープン戦では好調も・・・そしてFA宣言
2002年はオープン戦でも好調で開幕戦では2001年同様3番・右翼で出場し、不動の地位を確立すると思われたが、シーズン成績は打率.266、10本塁打と低迷した。翌2003年もオープン戦は好調だったが、シーズンは69試合の出場に終わる。2004年も同様にオープン戦では好調でシーズンも135試合に出場したが打率.265、18本塁打に終わった。また、3番の先発出場は1試合もなく、台頭した岩村明憲にクリーンアップの座を奪われ主に下位打線を担うようになっていた。
そして、2004年シーズンオフにはメジャーリーグへの移籍を希望し、FA宣言するもオファーがなく夢は叶わなかった。しかし、日本ハムからの入団交渉があり、晴れて移籍が決まる。ちなみに現時点で日本ハムのFA宣言選手の獲得は2014年シーズン時点では稲葉が唯一となっている。
~日本ハム時代~ 移籍初年度
2004年の日本ハムは左翼がエチェバリア、中堅はSHINJO、右翼は坪井智哉が守っていた。2005年はエチェバリアが退団となり、稲葉が加入し外野の一角を担うことを期待されたが、島田一輝、石本努といったライバルとの競争に勝つ必要があった。この年もオープン戦では26打数10安打、打率.385と結果を残し、開幕戦は7番・右翼を勝ち取ったが、下位打線が中心で表6の通り6月までは打率も伸び悩み、当時台頭してきた森本稀哲が右翼を守ると、時にスタメンを外れることもあった。しかし、7月半ばころから徐々に調子を上げると、8月下旬からは5番を打つことが増えた。
~日本ハム時代~ 左投手を克服し、主軸として活躍
2006年オープン戦では36打数17安打3本塁打と結果を残し、開幕戦では5番・右翼を再び勝ち取った。当時キャリアハイだった2001年の翌2002年もオープン戦は好調ながらシーズンは低迷してしまったが、2006年は全く違った。打率は.307をマークし、自己最多となる26本塁打を放ち、まさに不動の5番としてチームを支えその後は主軸として君臨したが、そこには左投手の克服があった。
表7を見ての通り、左打者の稲葉は対右投手には比較的安定した成績だった。一方で対左投手には苦戦していたようだ。入団の1995年から2000年までの通算の対左投手打率は.236で、ベストナインを獲得した2001年でも、対左投手は209打数56安打で打率.268という成績だった。その後3年間は .227→ .224 → .176 と数字を落としていった。しかし、日本ハム移籍後は左投手に対して変化が見られた。特にピーク時ともいえる5年間(表8)は、通算で対左投手打率.300、長打率は.441をマークし、対応力の向上を示した。
~日本ハム時代~ 成績の陰りと引退決意
統一球が導入された2011年、稲葉の年齢は39歳になっていた。打撃成績もこれまでに比べると見劣りする数字になったが、この年は極端な投高打低によりどの打者も数字を落とした。ただ、リーグ平均のOPSと比較すると、まだ上回ってはいるものの、その差は小さくなっていた。40歳となる翌2012年は開幕戦での2番・稲葉が話題になり、2本の二塁打を含む4打数3安打1四球と大暴れした。その後もコンスタントに打ち、前年より成績を上げ「ベテラン健在」を見せつけたが、やはりリーグ平均差を見てもピーク時に比べると小さくなってきた。そして2013年はついに日本ハム移籍後初めて100試合を切る91試合の出場になり、OPSを見ても成績をかなり落とす。
引退会見のコメントでも「一軍のスピードの中で一線級のプレーをするのがレギュラー。スイングが鈍り、少しずつ昨年から(衰えを)感じてきて。今年もう一度鍛えようという中で膝に痛みが出た」。との通り、それが数字にも表れていた。そして、迎えた2014年は手術の影響もあり、8月までで23試合の出場にとどまり、ついに9月2日に引退を発表した。
~引退~ ファンの期待を寄せる打者としての証
チャンスに稲葉が打席に入ると観客席のファンが跳ねる「稲葉ジャンプ」は名物だった。何かやってくれそうだ・・・そんな期待を寄せたくなる打者だった。そこで殊勲打を見てみた。殊勲打とは先制、同点、逆転、勝ち越し、サヨナラといった状況を変えた一打のことを指す。表10は稲葉が所属したチーム内の殊勲打TOP3である。ヤクルト時代は8年間がランク外であったが、日本ハムでは一転して移籍初年度の2005年は12本と4位だったものの、以後2006~2012年の7年間はTOP3に入り続けた。成績に陰りが出た2011年、2012年もチームTOP3に入っていた。状況を変える一打を多く放っていたことが、ファンにも「何かやってくれそうだ」という強い印象を与えたのだろう。
そして、9月30日に本拠地で引退メモリアルイベントが行われた。その日も1点ビハインドの7回裏の2死二塁から代打で登場し、逆転3号2ランを放ち、チームを勝利に導く殊勲打を打った。引退間際でも「状況を変える一打」を放ち、最後までファンに「何かやってくれそうだ」という強い印象を与えた。
守備でも5度のゴールデングラブ賞に輝いたが、全て日本ハム時代だ。おそらく、日本ハム移籍は稲葉にとって大きな転機だったと思われる。そして、国際大会では2008年の北京五輪、2009年、2013年のWBC出場と、日本を代表するトッププレーヤーとして活躍した。さらに、2012年4月28日には史上39人目となる2000本安打を達成し、10月2日現在で現役選手最多安打打者となる、2167本の安打は日本球界では、ヤクルト時代に監督であった若松勉の2173本に次ぐ21位である。まさに名実ともに一流打者となった。
10月5日に本拠地で行われる試合がレギュラーシーズン最終戦となる。その日は引退セレモニーとして試合直前のシートノックで全選手が稲葉のユニフォームで参加することが発表された。いかに稲葉の存在が大きかったかがわかる。
これからは第二の野球人生が始まるが、早速侍ジャパンの打撃コーチにも就任が決定しており、引退会見でも「今まで支えてくださった方に恩返しするため、指導者として若い人を育てていきたい」と語った。今後は第二の稲葉の育成に大きな期待がかかる。
※2014年の成績は2014年10月2日終了現在